浮イネという生き方
~エチレン情報伝達を介した洪水耐性機構~

生物は約40億年もの時間をかけて進化する中で、地球上の様々な環境に適応してきました。その中には生物が生存するには過酷な環境もあり、特に容易に移動することの出来ない植物が様々な環境で生き抜く為には、過酷な環境を克服する何らかの機能を獲得しなければなりません。
「水」は私達人間に限らず生物にとって生存に不可欠な要素であり、河川や湖畔などの水辺に生息地を拡大することは水分の確保という意味では大変有利です。一方で、生存に必須な水も多量になると洪水を引き起こし、周囲を過酷な環境へと変化させるため生存には不利になります。東南アジアのモンスーン地帯には、雨季における長期間の降雨によって、広範囲にわたり数ヶ月におよぶ深水洪水(deepwater flood)という洪水が発生します。このような地域では水位が数メートルにおよぶところもあり一般的な植物は溺死してしまいますが、イネの中にはこのような洪水に適応したものがあります。浮イネ(deepwater rice)と呼ばれるイネは水位の上昇に伴って劇的に節間(茎)を伸長させることで葉を水面に出すことが可能です。これにより呼吸を確保し、深水条件による酸欠状態を回避することで洪水地帯に適応してきました(図1)。
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この劇的な伸長に関して多くの研究者が興味を持ち様々な実験が行われてきました。少し専門的な話になりますが、エチレンやアブシジン酸(ABA)、ジベレリン(GA)といった植物の生長を制御するホルモン(植物ホルモン※1)が浮イネの節間伸長に関与していることがこれまでに明らかにされています。その中でも、気体の植物ホルモンであるエチレンは浮イネの節間伸長を促進することが知られています。私達の研究からも、通常のイネと浮イネにエチレン処理を行うと、通常のイネでは節間伸長が起こらないのに対して、浮イネでは深水状態と同じように節間伸長が促進されることが明らかとなりました(図2)。
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しかし、深水状態における通常のイネと浮イネの植物体内のエチレン量を測定したところ、両者では同程度のエチレンの蓄積が観察されました(図2)。これらの結果から、深水状態でエチレンの生成、蓄積は通常イネ、浮イネにおいて共通の現象として起こっており、そのエチレンを信号として節間伸長を促進するメカニズムに違いがあると考え、私達はその原因を探る研究を行っています(図3)。
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浮イネの急激な節間伸長については、これまでに植物ホルモンに関する生理学実験の他に、伸長を制御する原因遺伝子を明らかにしようとした遺伝学研究も行われてきました。しかし、多くの研究者が挑戦したにもかかわらず、これまでに浮イネの節間伸長を促進する原因遺伝子の特定には至っていませんでした。その原因の一つに、浮イネの節間伸長が一つの遺伝子によって決まる性質ではなく、複数の遺伝子の相互作用によって決まる性質(専門的にはこれを量的形質座(QTL※2)といいます)によって決定されるからです。このことが原因遺伝子を見つけることを困難にしていたのです。しかし、2004年にイネのDNA配列が全て解読されたことによって、イネの性質を決めるメカニズムの解明にDNAレベルでメスを入れることが可能になりました。そこで我々は(ここでは詳しくは説明しませんが) QTL解析と呼ばれる手法を用いて、12本あるイネの染色体のうち、第1、3、12染色体に浮イネの節間伸長を制御するDNA領域を発見しました。これら3カ所のうち、節間伸長の促進に対して最も効果の大きい第12染色体の領域に関してマッピング※3という手法を用いて原因遺伝子を特定しようと試みたところ、浮イネの節間伸長を制御する2つの遺伝子を発見し、私達はこれらの遺伝子にSNORKEL1およびSNORKEL2という名前を付けました。余談になりますが、名前の由来は浮イネの伸長した節間(茎)はシュノーケルのように中が空洞になっており、これにより水中でも下の組織に酸素を送り込むことが出来ていると考えられているため、この伸長を制御している遺伝子にSNORKELと名付けました。これらの遺伝子の機能について詳しく調べたところ、この2つの遺伝子は通常のイネには存在していなく、浮イネだけに存在していることがわかりました。またSNORKEL遺伝子は浮イネが深水状態になることで発現が上昇し、さらにエチレンを与えることでも発現が上昇しました。さらに、人工的にSNORKEL遺伝子を過剰発現させると、深水状態ではない通常の栽培条件で節間伸長を促進しました。
これらの結果をもとに私達は浮イネの節間伸長のメカニズムとして図4の様なモデルを考えています。深水状態では通常イネと浮イネの両方でエチレンが蓄積しますが、通常のイネはSNORKEL遺伝子を持っていないので水中で伸長できずに溺死してしまいます。一方、浮イネでは蓄積したエチレンによってSNORKEL1SNORKEL2の発現が上昇することで節間伸長を促進することが可能になります。これにより洪水時にも水面に葉先を出して呼吸を確保することで洪水環境に適応したと考えられます。
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これまでの私達の研究は浮イネの節間伸長にはSNORKEL遺伝子が重要であることを明らかにしました。しかし、SNORKEL遺伝子だけでは浮イネの急激な節間伸長のすべてを説明できません。現在、私達はSNORKEL遺伝子のより詳細な機能の解明に加え、第1、第3染色体に存在する浮イネの節間伸長に関わる原因遺伝子の同定を試みています。また、浮イネの節間伸長に関する分子メカニズムの解明以外に、これまでの成果を応用することで、実際に洪水地域に適応したイネ品種の開発にも取り組んでいます。

用語

※1 植物ホルモン:植物自身が生産する物質で、植物の生理活性や情報伝達を調節することで生長を制御する。
※2 QTL:Quantitative Trait Locus(量的形質遺伝子座)の略。1つの遺伝子によって決まる性質ではなく、複数の遺伝子の働きによって決まる性質。種子の大きさや草型はQTLによって決まる性質の代表例。
※3 マッピング:表現型の値(草丈が“高い・低い”や、種子が“大きい・小さい”など)をDNAマーカーにより判別した遺伝子型を比較することで、目的遺伝子が染色体のどこに位置しているかを特定する手法。